ルイ・ブライユの点字をもとに、日本語に合うように工夫を重ね、使いやすい点字を創り上げたのは、東京盲唖学校(現在の筑波大学附属視覚特別支援学校)の教師と生徒たちでした。その中で主導的な役割を果たしたのが、石川倉次(1859〜1944)です。
明治15年(1882)、石川は東京のかな文字会に参加。明治19年(1886)、かな文字会で知り合った東京訓盲唖院(視覚・聴覚障害者のための官立学校)の教師だった小西信八にすすめられて同校の教師となります。
幕末期以降西欧諸国との交流が盛んになると、簡単なアルファベットで綴られる西欧語に比べて、日本語では、漢字・平がな・片かながあり、文字の数も使い方も極めて煩雑で、これを簡単にすることが文明国にふさわしいと考えられ、1903)の「国定小学国語読本」でもこの考え方に基いて、字音棒引き仮名遣いが最用されています。
このような時代背景の下、日本点字が当初からかな文字論の実践ともいうべき表音式を採用したのは、小西信八や石川倉次のようなかな文字論者がその成立に深くかかわっていたためだと思われます。
石川は、 ルイ・ブライユの点字を参考にして、明治23年(1890)に日本点字を翻案し、その後も、点字器、点字タイプライターなどを開発します。
日本のかな点字は、請願書の署名や投票、各種国家試験の点字受験にも正式に用いられています。最近は、エレベーターや駅の券売機などにも点字表示がされるようになりましたので、皆さんも点字を目にすることが多くなったのではないでしょうか。