< 悪友「しげ」にQ!

中途失明者に直撃インタビュー

「平瀬は日常生活の中で不便をあまり感じていないようだ。それはおまえが先天盲だからに違いない。中途失明者の不自由な気持ちをしりたい」というメールを頂きました。

しかし、私には中途失明者の気持ちを代弁することはできません。そこで、当事者の生の声を聞きたいと思い、盲学校時代からの悪友である「しげ」に色々と尋ねてみました。

ガイドと一緒に急斜面を滑る「しげ」

失明したのは何才くらいの時ですか。またその原因は?

いつ頃ですかね〜〜?だって、僕は今も明るさを失っていないから!

左眼は物心ついた時には視力がありませんでした。直接の原因は三輪車で転んだことみたいですね。その当時に診察した町医者は異常ないと言ったのですが、1年ぐらい経過して、やたらと眼を近づけるぼくの行動に異常を感じた両親が、大学病院に連れて行った 時にはすでに手遅れでした。

もともと右眼の視力も0.1〜0.2程度で、あまり良い方ではなかったので、小学校に入学する際に、両親は僕を盲学校に入れようか迷ったみたいですけど、結局のところ地元の普通校に通わせたみたいですね。

そして中学3年の夏休みに釣針で右眼の上辺りを怪我して、急激に視力が低下していきました。

失明した直後、何が一番大変でしたか?

見えなくなったこと自体は、さほど大変ではなかったような気がします。退院してからも今までどおりに家の中では自由に動き回っていましたし、自宅の屋根に上ってテレビのアンテナなんかもいじっていましたから!むしろ、学校に行けないことや友達と遊べないことの方が辛かったですね。

そんな時に中学の担任が、「一日中、家にいても退屈だろうから学校に出て来なさい」と言ってくれて毎朝車で家まで迎えに来てくれたので、それはすごく嬉しかったです。

もう一つ辛かったというか当時の僕には許せなかったこととしては、見えなくなって直後に母親がある新興宗教に没頭していったことですね。当時の母親にしてみたら、溺れる者が藁をも掴む気持ちだったと思うのですが?

失明直後不自由、あるいは不便に感じたことは?

見えなくなったといっても、当時は光と影が何となくわかったので移動する上ではあまり不便を感じませんでした。文学少年だった僕にとって好きな本が読めないことが一番辛かったですね。それ以外はさほど不便も不自由も感じなかったかな。

高校進学に際して受け入れてくれる所がほとんどなくて、途方にくれている時に盲学校の存在を初めて知らされたんですよね。進路指導の先生からは見えない人たちがみんなと同じように学んでいる所だと聞かされて、軽い気持ちで入学を決意しました。

しかし、いざ入学してみると今まで生活してきた社会とは全く異質な世界が待ち受けていました。僕にとっては、ものすごいカルチャーショックでしたね。と同時に自分もこの世界でしか生きていけない・視覚障害を受け入れることでしか自分の未来は開かれないことを肌で痛感しました。盲学校で初めて触れた点字や白杖が自分の未来を開いてくれるツールだと直感的に思いましたね。

文学少年だったって本当?ま、いいけど!で、今は本は読むの?

確かに中学生までは、ジャンルを問わずに手当たり次第に読んでいましたね。学校の図書室の本はほとんど読みました。今となっては、内容は何も覚えていませんけど。文学少年というよりは好奇心旺盛なだけだったのかも?

点字をマスターすれば、また読みたい本が読めるという思いで、当時は必死になって覚えましたね。しかし、ある時期に読みたい本が点訳されていないという矛盾を感じてからは、読書意欲も薄れて適当でした。

最近はといえば、本に囲まれて仕事をしているのですが、いつでも読めるという思いもあって、なかなか読めていないですね。せいぜい月に2・3タイトル読めれば良い方かな。

カルチャーショックって?

僕は、感覚で生きている人間なので、うまく説明できませんが、今までに自分の中で培ってきた常識みたいなものが、ここでは全て非常識になっちゃうんですよね。例えば、ほとんどの人が異性を意識することもなく誰にでも平気で触れ合ったり、(一旦社会に出た後失明して入学する人もいるので)先生のような生徒が存在していたり、障害の軽い人の方が大変そうだったりで、体験することすべてが、まるで未知との遭遇でしたよ。

盲学校での生活に不安は?

もともと僕は、社会への順応性が悪い方ではなかったので、生活そのものには、ほとんど不安はありませんでした。むしろ不思議な体験ばかりで、新鮮でしたね。

唯一の不安といえば、理療(鍼灸マッサージ)以外の仕事をしたかった僕としては、卒業後の進路について、方向性がなかなか見出せなかったことぐらいかな。当時の僕は、浪人してでも大学に進学したいと思っていたのですが、高校3年の時の担任から強引に理療への道を進められて、盲学校に6年も通うはめになりましたから。

体育の授業は怖くありませんでしたか?給食の食器が入ったかごや鍋を両手に持って歩くのは大変ではありませんでしたか?

体育の授業については、体を動かすことは、もともと嫌いではなかったので、むしろ楽しかったですね。普通校に通っていた時は、見えにくいこともあって、脚光を浴びることはほとんどなかったのですが、盲学校では常にヒーローになれましたから。

僕は、趣味でスキーをするのですが、全く恐怖心がないといえば嘘になるかな。

しかし、どんなスポーツでもいえることだと思うのですが、見えようが見えなかろうが、多少の恐怖心はありますよね。決して、見えないゆえに生じる恐怖ではないような気がします。むしろ見えているから怖いと思うことの方が多いんじゃないですか?

例えば、皆さんがスキーをしていた時に、突然目の前に長い急斜面が現れたら、どうでしょうか。スキーに不慣れな人でしたら、見たとたんに、気づいて転倒してしまいますよね。僕の場合は、もちろん斜面がどのくらい長いかなんて判りませんし、スキー板を通じて斜面変化を感じたと同時に体が反応していますから、何ら問題はありません。

両手に何か物を持って動くことは、ほとんど不便はありませんでした。当然といえば当然ですよね。僕には上肢障害なんてありませんから!

むしろ自分の体の前で荷物を持っていれば、ぶつかった時に自分は怪我しないので、安心して動けますね。今では、パソコン・デジカメ・拡声器・ブーツ・ウェア・ワックス・着替えといった道具類一切をリュックに詰め込んで、おまけにスキー板2本抱えて、一人で電車・バスを乗り継いでゲレンデまで、出かけていますよ。

これらの不自由、不便をどのようにして解決してきましたか。

どのように克服したかと言われるとわからないのですが、ほとんど点字の読み書きと音楽の感性だけが人一倍素晴らしい生意気なクラスメート(平瀬徹という変なやつ)に刺激されて、「こいつにだけは負けたくない」という意地のような対抗意識だったような気がします。当時は一番嫌いなやつでしたけど、今では一番親しくしている盲学校時代の友人かもしれませんね。

点字や白杖がある程度使えるようになった時に見えなくてもできるんだという自信が湧いてきました。と同時に今まで残存視力に頼っていた自分が馬鹿らしくなりましたね。そう思えるようになって、眼を使わないでいたら、あっという間に全盲になってしまいましたけど、何ら不自由も感じませんでしたね。

今、失明間もない人たちに先輩としてアドバイスしたいことは。

見えないことを素直に受け入れたら楽ですよ。そして、自分らしさを持ち続けてほしいですね。というか、何でもかまわないので、自分が熱中できることを探してほしいですね。

見えないって決して不幸ではありませんよ。僕は見えなくなって、むしろ良かったと思っています。なぜなら、見えないゆえに、これまでに素敵な人との出会いに、たくさん恵まれましたし、これからも多くの人に巡り合えると思うから!

視覚障害者の仲間に訴えたいことは?

映像見えなくても自分自身の未来はしっかり見つめてほしいですね。そして具体的な行動も起こさないうちからあきらめないでほしいですね。

種をまかない畑に果実が実ることはありませんよ。むしろ僕たちにとっては、荒地を種がまける状態に耕すことの方が大変かもしれませんけど!夢は見続けるものではなくて、叶えるものなんですよ♪

最後に、晴眼者に対するメッセージをどうぞ!

見えない=できないという固定観念を捨ててください。できないのは見えないからではなく、受け入れ側の環境が整っていないからなんですよ。

また、視覚障害者をひとまとめにして捕らえることはやめてください。見え方は人それぞれで、みんな違うんですよ。たとえ同じ見え方の人がいたとしても、当然障害を受けた時期や育った環境は違いますからね。

そして、必要以上の手助けはしないでください。僕たちは、視覚から得た情報を正確に言葉にして伝えてくれるだけで良いのです。決して荷物を持ってほしいなんて思っていませんよ。

「しげ」正面右ターン

★「しげ」プロフィール★


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