YIさんの失明原因は何ですか?

網膜色素変性症という、原因・治療法もいまだ定まらない病気です。

昭和47年にマイホームを新築したころから徐々に視力がおちはじめ、昭和51年に右の目、続いて52年には左目の白内障の手術をし、医師からは順調だと言われたので、まさか全盲になるとは夢にも思いませんでした。と言うより、全盲にはなりたくないというのが本音でした。

そして昭和57年、一番便りにしていた妻にも先だたれ、これが大きなショックとなり、視力の低下が進んでしまったのです。

そこへ今度は勤めていた会社の閉鎖、これも大きなショックでした。

奥様を亡くされて、子育て、身の周りのことなど、不便になったことはありますか?

はい、たちまち困りましたよ。なにしろ横のものを縦にしたことのない私でしたから。

それでも幸いなことに、近所の皆さんの温かい親切によりなんとか生きようと思いました。

不自由なこと、不便なことをどういう工夫で解決してきましたか?

そこは、よくできたもので、長男が成人になっており、食事は、やってくれましたし、ご近所の皆さんが手を貸してくださったので助かりました。

YIさんは家の中で不自由なことはありますか?

今ではほとんど感じません。

私は昭和62年に生活訓練をしていただいたので、今では炊事洗濯もこなしていますよ。

点字やパソコンを勉強しようと思ったきっかけは?

ただ家でなにもせず(ぼおっ)としていても1日だし、それなら点字を覚えようと、ようやく重い腰を上げたのが昭和62年、点字の勉強会へ入れていただいたのです。なにしろ50の手習い、なかなか覚えられず、今でも読むのは苦手です。

点字の勉強会には私のような中途失明の方がたくさん参加されていて、いろいろな苦労話やら励ましやらで、やっと生気を取り戻すことができました。

でもほとんど見えない私が一人で盲人文化センターまで行くのは不可能、そこ で歩行訓練を受けられる病院に三週間入院、他にも日常生活訓練や料理なども習いました。

そのころだったと思いますが、福祉機器展に行き、平瀬さんがパソコンを操作してらっしゃる姿をみて、我々でもできるのではと考え、入院していた病院に設置していただき、三人の患者でワープロソフトの学習を始め、今ではメールまでやれるようになったと言う訳です。

かな点字だけでなく、漢点字まで勉強しようと思ったのはなぜですか?

漢字が忘れられなかったのと、点字で漢字が書けると言われ、やる気にさせられちゃいましたよ。

かな点字でさえ苦労しているのに、漢点字ってなかなか読めませんでしたよ。

でも、今は漢点字で直接入力、これが最高の喜びですよ。ローマ字やかなから変換して候補文字を探さなくても、晴眼者が鉛筆ですらすら文字を書くように、思った漢字をどんどん書けちゃうんですから。

YIさんを前向きに生きようとさせたものは何だと思いますか?

中途失明の皆さんの話を聞くと、一度は死を考えたと言う方が多いようですよね。

ところが私にはそれはなかった。どうしたら子ども達を育てていけるか って言うのが先にたち、「生きよう」って思う方が強かったんです。

それと、一人で歩けるという強みが私の助けとなっているのです。

まあこれまでやってこられたのは多くの皆さんの支えがあってのことと感謝している次第です。

失明したばかりの方へのメッセージをお願いします

ソレゾレ条件や事情といったことも違ってくると思いますが、家族や世間にあまえず、自分に厳しくなにごとにもチャレンジ精神を持って取り組んでほしいと思います。

ボランティアやヘルパーさんへのメッセージをお願いします

私の場合は家事援助として、月6回ヘルパーさんに来ていただいています。主にお願いしていることは、郵便物などの書類の処理です。それと、私では目の(手の)届かないところの掃除をやっていただいているんですが、終わった後は使用した道具や移動した物については元の通りに置いていただくようお願いしています。

よく例にするんですが、机の上のコップを動かした場合、1センチでも違わないようにって言っています。ただ目が見えないだけなので、やれることはなるべく自分でやりたい。だから後でやりやすいようにしておいてくださいって、言っています。

ヘルパーさんやボランティアさんに言っておきたいのは同情や、やって上げる って言う考えはして欲しくないって言うことです。

YIさんは鉄道の旅がお好きなようですね

私は幼い時から鉄道町(三重県亀山市)に育ち、蒸気からの鉄道好きでした。

亀山と言う町は、関西線と参宮線とを結ぶ分岐点、名古屋から約60キロの位置にあり、名古屋を分岐点とした第二の東海線として位置づけられた、中京圏と関西圏を結ぶ重要な路線として発達したのです。

 亀山駅は0番線から側線をもった5番線のホームを持ち、構内は機関庫をはじ め貨物列車の操車場をもつかなり大きい駅で、私はいつも蒸気の汽笛で目を覚ま し、子守歌として育ったものでした。

天皇家が伊勢神宮や橿原神宮にご参拝される時にはよくお召し列車をお出迎え に行ったものでした。

今は鉄道旅行好きの仲間8名で日帰り旅行しています。行き先が決まったら、ボランティアさんに現地の観光パンフレットを取り寄せていただき、点訳していただきます。名古屋駅の案内所に行き、希望時間帯を言って時刻表を調べてもらうのは私の役目です。旅行には行かなくても、案内所にはよく行き、職員の方とお話するのが好きなんです。

最近は自分で点字の時刻表も作成し、乗り換えの連絡がいいかなども検討して計画を立てています。

新しい路線ができると、同じ趣味を持った同志とすぐに出かけます。 一つ旅が終わるとすぐに次の計画をというように楽しんでいます。


平瀬から

最近はJRでも、改札口でお願いすると駅員さんが乗り換えのガイドヘルプをして下さるようになりました。以前は一週間くらい前からお願いしておかないといけなかったのですが。但し、大きな駅では別の部署から係員を呼ばないといけないようで、20分くらい待たされたこともあります。ですから、最寄り駅の乗車は馴れているからと大きな駅まで一人で行くのではなく、最初からガイドヘルプをお願いし、乗り換え駅のホームまで駅員さんに迎えに来ていただくほうがスムーズなようです。

支援費制度を使ったガイドヘルプの場合、日帰りでなければなりません。NPOの事業者でガイドヘルプネットワークが確立され、目的地までは駅員さん、現地では地元のヘルパーさんにガイドしていただけるようになれば、もっと私たちの行動範囲も広がるのではと期待しています。


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