点字の父・ルイ・ブライユの生誕


ルイ・ブライユの生誕

ルイ・ブライユの胸像

点字は、パリ訓盲院の生徒で、後に同校の教官となったルイ・ブライユ(Louis Braille)によって1825年に考案されました。 点字のことを英語でBRAILLE(ブレイル)と呼ぶのは、Louis Brailleの名前から来ています。



ルイ・ブライユは、1809年1月4日、フランス北部、パリの東58kmにある クヴレ(Coupvray)という小さな村で生まれました。 近くには、1992年4月に開業したディズニーランド・パリがあります。

3才頃、馬具職人だった父親の工房で両親が留守中、遊んでいて、革を裁断する錐かナイフのような器具で左目を突き失明、5歳のとき感染症で右目の視力も失ったそうです。

1890年代初頭、障害のある子どもに対しては教育は不必要とされていたようですが、父はブライユのために、触って楽しめる木のおもちゃをたくさん自作しています。両親が教育熱心だったことをうかがい知ることができます。



ブライユ、パリへ

ブライユは、教会のパリュイ神父の尽力もあって、村の学校に目の見える友達と一緒に2年間通うことができました。そして、彼の能力に感心したある侯爵の援助を得て、10歳の時、バランタン・アユイが創設した世界初の盲学校に入学することができました。

教育学者であったバランタン・アユイは、見世物小屋での視覚障害者の悲惨な様子を見かけたことを機に、彼らの地位向上を決意し、盲目の物乞いの少年に対する教育にとりかかり、1784年にパリ訓盲院(盲学校)を創設しました。

線文字の本

パリ訓盲院では、アユイが考案した、アルファベットの形を浮き出させた線文字が使われていました。しかし、指で読むには大きすぎて時間がかかり、視覚障害者自身が書くことができないという欠点がありました。


1821年、砲兵大佐シャルル・バルビエがパリ訓盲院にやってきて、ソノグラフィー(夜間でも兵士間で情報伝達ができるように考えられた暗号を改良したもの)を紹介しました。これは、文字そのものではなく、フランス語の音を 12の点と線の組み合わせで表すものでした。

ブライユは、ソノグラフィーの点の数を減らし、かつ正確な知識が得られるように、音ではなく、アルファベットや数字、記号類など文字そのものを表すように改良を重ね、1824年、6点による点字を考案しました。

ブライユ点字は仲間の生徒たちには歓迎され、内々に使われていたようですが、訓盲院ではその後もアユイの浮き出し文字による教育が続けられていました。視覚障害者のための特別な文字を認めることは、見える人と見えない人との間に障壁を作ることになるという、見える教師の先入観による抵抗が強かったからだと推測されます。

点字楽譜を手で読んでピアノを弾くモニュメント

パリ訓盲院で点字の使用が正式に認められたのは、1844年で、そのころには既にブライユは肺結核にかかっていて、1852年1月6日に亡くなりました。 その2年後の1854年、フランス政府はようやくブライユ点字を正式に認めました。その後、ブライユが考案した点字は次第に世界各国の言語を表すように翻案され、また楽譜や理数記号など、さまざまな専門分野のニーズにも応えられるよう工夫が重ねられ、とくに 点字楽譜は世界的に共通のものが現在も使用され続けています。




下記は、故筑波技術大学 保健科学部保健学科鍼灸学専攻 准教授 大沢秀雄先生からご提供頂いたブライユの写真です。


ブライユの横顔

1948年発行で、フランス相互援助のための寄付金付き切手です。






ブライユの正面像、左上に点筆と定規

2009年発行、ブライユ生誕200年の記念切手。額面の0.55ユーロの点字入り


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